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2007年8月20日 (月)

PDX2000開発記 5

Photo 先日PDXの開発を一緒に進めていた元客先担当者Fさんが(退職した)がJAZZを聴きに見えてくれた。

過去に遡るがRobert Moog(ロバート・モーグ)博士が1960年代後半に電圧制御発信器を使ったモーグ.シンセサイザーを発明してから音楽シーンは電子楽器時代へと突入した。

当時ヤマハライトミュージックコンテストで良い成績を上げていたHビックバンドは、これらの情報を手に入れ何とか電子化の方向が出来ないかと模索した。コロンビアのエレキピアノの改造、エレクトリックトランペットなど多少は電子化が出来た。

そのFさんが”DJもコンピュータで音楽を作る時代になった”と言われていたが、まあこれも”はやり病”でしょうがない事だ。クラプトンはアンプラグドでアコースティック回帰をした。他にも沢山のミュージシャンがエレクトリックから回帰している。

確かにDJは沢山のレコードを持参して、2台のレコードプレーアで演奏をするのが大変と言われればそうかも知れないが、涼しい顔をしてコンピュータのシンセを操作するなら別にDJの必要もなかろう。時代は必ず揺れ戻しは来るが元へは戻らない。

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2007年8月19日 (日)

サンフランシスコ ベイブルース 15

PhotoサウサリートのJAZZクラブからサンフランシスコ、ダウンタウンを望む。アルカトラス島、ベイブリッジがかすかに見える。このJAZZクラブには、ビル.エバンスが必ず出演したと勝手に決めて訪れた。

デイビス.ホール近くのJAZZクラブキムボール以外は、本格的なJAZZクラブは無く食事しながら楽に聴く、そんな場所ばかりだ。それでもホテルのレストランとか、探しに探して10箇所くらいは見つけたが、ニューヨークと違い凄いJAZZクラブは無かった。1980年代後半はJAZZが一番落ち込んだ時期なのかもしれない。

何処でも録音のウオークマンPRO WM-D6を胸にキムボールで何回か録音したがステージまでの距離があり、演奏中のレベル調整は不可能で(事前に見当でレベル合わせしておく)大半は失敗だった。

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2007年8月12日 (日)

ベイシーのサイン

Photo_7ベイシーの壁には著名人のサインが至る所に書かれている。JAZZ好きが、あ!この人も、とこんな感じでわかって結構楽しい。それにしても人脈の広さ、多さにはたまげる。

林家こぶ平さんは、襲名して正蔵になったが無類のJAZZ好きで、勿論こぶ平時代のサインもある。今回の騒動では”地下の主役オーディオルーム”がTVに登場して、オーディオも凄い事が分かった。

Photo_9早稲田のハイソ出身者には音楽業界の大物も多く、当時ソニーの名プロデューサー、後のソニーミュージック社長、伊藤八十八さんもマスターの後輩で紹介して頂いた。グレートジャズトリオの一連の作品は八十八さんのプロデュースだ。そのレーベルイースト.ウインドウは弁護士先生が所有する。

勿論タモリもハイソのトランペッターで後輩になる。マスターの18インチJBLユニットが行っている、という事はタモリも相当なオーディオマニアなのだ。

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フランクフルトのお嬢さん

Photo_6当時のドイツ責任者は日本人で、細かい事にくよくよしないおおらかな人物で大いに好感が持てた。その彼が休日を1日返上して観光案内をしてくれた。例のライン川古城めぐりと、モーゼルワインの里までのデラックスコースだ。

その時同行してくれたのがこのお嬢さんで、(奥さんはドイツ人)日本語は分からない。言葉は分からなくてもすぐになついてくれた。そして分かれるときはワーワーと泣き出されまいった!

あれから10年、もうすっかり大人になったのだろう、責任者は結構”いかつい”顔をしていたが可愛いお嬢さんだった。

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2007年8月10日 (金)

ベイシー紀行 8

Photo_4ここがベイシーマスターの書斎の一部。店の一角に原稿を送るFAX、カメラのレンズ、フィルム、現像が上がった写真など多くが雑然と置かれていて、どこかの研究室的風情だ。なんせ写真と来たらプロの腕前、いやプロなんだろう。自分でデザインもするしどうやら嗜好がこちら寄りだね。

誕生祝に真っ赤なバラを送ったら(こうゆうのは家人のセンス)くだんのモンブランで丁寧に書いた礼状が来た。メール、FAXの時代に礼状は中々書けない。

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2007年8月 8日 (水)

ビレッジバンガード 5

Photo_2最近は堕落?したのか観光客にサービスを良くしたのか分からないが、ブルーノートみたいに”おとうさんこっち、こっち”などと日本語が聞こえてくると聖地と崇めているJAZZファンはいやだね。

Photo_4大体写真撮影は禁止だったはずだ。だからカメラとウオークマンPROを胸に忍ばせて、ばれたら袋叩きに会い、機材没収と勝手に決めてスリルだった。ステージの合間にクラブ内を動き回り、こっそりニコンのFM2を使いストロボ無しで撮影した。良いカメラだがシャッター音のでかさに冷や汗が!

JAZZ史を飾る”巨匠の写真の写真”が撮れたは大収穫で、拡大して店に展示してある。

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PDX2000開発記 2

Photo_3画像は信州の天才Oさんが開発したモータだ。アウターローター型で巻き線が簡単にでき、量産時に威力を発揮する。

物語には敵なる人物の登場が必要だが、客先の部長としよう。M社はオーディオのトップメーカで、そこの部長だから言う事は厳しくて、開発会議でいきなり”遊びではない”と一喝された。こちらの気持はプロだから勿論遊びではないが、製品その物は遊びでなければできない類のものだ。

JAZZ党のあんぷおやじは大体DJなどと言うものが何なのか詳しくは知らない。先ずはそこからの調査であった。たまげたのはDJは音楽演奏家であると言うこと!単なる皿回しではない。レコード盤の押さえは言うに及ばず、シャフトの押さえ、プラッターの押さえなど様々なテクを駆使して、2台のレコードプレーアから音楽を作り出す。

えらい物を引き受けてしまったと思ったがもう後の祭りだった。

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2007年8月 7日 (火)

PDX2000開発記 1

Psx2000DJ用のレコードプレーアでV社のPDX2000だ。この世界はテクニクスのSLシリーズがベストセラーで牛耳っていて、それを越える目標で開発した。あんぷおやじはハードとソフトを担当した。DJ用でトルク重視となれば、磁石付きにならざるを得ない。音重視ならば弱磁性体のヒステリシスシンクロナスモータになるが。

ワウフラが0.05%で非常に厳しい数値だ。加速、減速時間が数秒などとゆう法外な数値でさらに、加速精度は音階の変化がふらつかない条件だ。もうこの時点で従来のレコードプレーアではなく演奏マシーンなのだ。

客先担当のEさんは勿論オーディオマニアでコンピュータ音楽(打ち込み)もでき、音楽に対する情熱も素晴らしい。モータは信州の天才Oさんが担当し、この3人がトリオを組み未知の世界へと進む事になった。

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2007年8月 5日 (日)

サンフランシスコ ベイブルース 番外編

D88ソニーのディスクマンD88だ。長年愛用したが、オーディオマニアに上げてしまい画像がなくインターネットから借用した。8cmのミニディスクはスッポリ収まるが、12cmの通常のCDはご覧のようにはみ出し、こりゃあ発想の勝利で直ぐ買った。

あんぷおやじは通常コリアンエアのビジネスクラスだった。コリアンエアだけ協定破りをしてLAまでの運賃が通常325000円の所を、ほぼ半額150000円でチケットが購入できた。

機体はボーイーング727でアッパーデッキがある。好事魔多しでこちらが午後1時のフライト、乗って暫くすると夕食になり9時間半の飛行時間、LA着が現地時間午前7時半、そのまま仕事、こりゃあきついぜ!

最初の頃ビジネスクラスはチマチョゴリでのサービスだった。前出のD88を大型予備バッテリーに接続してヘッドフォンで聞いていると、そのチマチョゴリが代わる代わる来ては、珍しいCDについて質問していく。あんぷおやじは得意そうに”it's new one”新型だと言い、ハングルと英語ごちゃ混ぜ会話となる。

ビジネスクラスでは担当してくれるスチワーデスさんの人数も多い。流暢な日本語で”ワインいかが”などと聞かれほっとして日本語で質問すると、分からなくマニュアル通りしか話せない人も結構いてたまげた。

傑作は機内での映画だ。LAまでは時間が十分にあり行きに2本、帰りに2本都合4本の最新作を見ることが出来る。コリアンエアなので英語の音声に字幕スーパーがハングル文字だ。英語、ハングル語、両方とも中途半端だが映画好きなあんぷおやじには、まいった!

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2007年8月 4日 (土)

サンフランシスコベイブルース 14

Photo_5坂の先サンフランシスコ湾に見える島はアル.カポネが投獄されたアルカトラス島だ。

今回はF君が都合が付かず付き添いはMr.Cだ。日系3世で日本語がまあまあと言ったところか。フリーモントのレストランへ食事に行くと何時もの中国系の美人がピアノの弾き語りをしていた。

あんぷおやじはウオークマンで唯一録音の出来る、ウオークマンPRO WM-D6 を海外へ出かけるときは必ず持参していた。これにステレオタイプのコンデンサマイクを胸のポケットに忍ばせ録音する。

ニューヨークでもワシントンでも、何処でも録音だ。この録音機材はDATよりも音が良くたまげたね。アナログテープのモータとモータ制御を正しくすればとんでもなく良くなるがその時代は終わってしまった。

中々哀愁に富んだ弾き語りで聞き入っていたが、Mr.Cに”いいねー録音したいね”と小声で漏らすと、お調子もんのMr.Cが突然弾き語り中のその美人に近づき、達者な英語で、(当たり前だ!)”日本から有名な音楽プロデューサーが来ていて、貴女の弾き語りの音源を持ち帰りたいと希望している”翻訳すると大体こんな感じか。即座にOKが出てオンマイクでセットして傑作録音ができた。

ジョークと捉えたか、本当と捉えたかは定かでない? こうゆう反応が実に絶妙で楽しい国だ。

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2007年8月 3日 (金)

ラグビー仲間 NO10

Ryou 2006年組のキャップテンでNO10スタンドオフだ。花園へ出発する時、昨年の12月24日の撮影で、前席は哲学者O路君で、後席がプロフェッサーRYU君だ。めがね姿は見たことがなくこの時プロフェッサーと決めた。

本人はキャップテンが嫌だったと回顧しているが、適材で唯一無二のキャップテンだった。責任感は人一倍強く、いつも重責と戦っていた。それゆえケガも多く勝手に治療隊の家人とあんぷおやじはよく面倒を見た。家人なんか我が子そっちのけで介抱に当たった。

母親が倒れ、チーム内はけが人続出の静岡県大会。どれだけの試練だったか想像に余りあるが、18歳の青年は見事に乗りきった。 そして花園仰星戦、倒されても倒されても立ち上がる君の姿は、満員の観客にどれだけ多くの感動と勇気を与えた事か、そして燃え尽きた!試合の敗者がこれだけ輝いて見えた経験は未だかってなかった。

RYU君、君はこの先どんな苦労困難に直面しても2006年組のこの貴重な経験で乗り切ることが出来るのだ。コンバージョンキックで天を仰ぐ君の姿は忘れないね!

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2007年8月 1日 (水)

ラグビー仲間 NO14

Photo_4信州から親元を離れラグビーで翔洋へ進学したあどけなかった少年は、18歳になり逞しいラガーマンに成長した。知らない土地で、知らない人々と新しい生活を始める、15歳の少年には勇気が要る事だ。ポジションはNO14,WTBのSIN君だ。

面白いように相手をかいくぐってトライする、ラグビーの真骨頂を何度も演じてくれた。しかしその彼も県大会前に故障した。親元離れ治療がままならず相当不安な日々を過ごしたのだろう。ケガ担当治療班と勝手に決めてSIN君にも声を掛けるが、他人を心配させまいと気を使う彼が痛々しかった。

花園では大活躍し、あの仰星戦で高校全日本選手のコンバージョンキックをチャージして、ここに彼のラグビー人生極まった!完封負けしたが、あの2点は”ラグビーに2点はないが”SIN君の得点で完封負けではないと決めた。画像は高校全日本選手を相手に奮闘しているSIN君だ。試合終了で泣き崩れるSIN君のTV映像が感動的だった。

彼を支えたおやじ殿は名門高松高校の出身ラガーマンだ。飯田と清水は直線なら100K足らずだが実際には200K以上もある、その距離をものともせず毎週のように来ていた。この情熱が2006年組の”あそこまで劇的な答え”を導き出す原動力になった。

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