2021年12月19日 (日)

油絵とSnow Beach

2112160コルトレーンが亡くなった1967年は県の芸術祭へデビューした年で、運良く上位へ入った。この年の大賞は大庭裕輔先生で、後に審査員となられてあんぷおやじを随分引き立ててくれた。タイトルは「地には平和を」で反戦絵画の始まり。主審査員の土方定一先生の評価は「シュールの傾向であるが技術が高い、思想的な意味がよくわかる」とあり、しかしこの技術が高いは全く持って当て嵌まらず、下手だからこそ寝食忘れて夢中で描いた。「貧しきものは幸いなり」と聖書にあるが、技術が無いからこそ努力し現在進行中の新技術開発機構も前へ進む。

2112161時を同じくしてブルックスでネクタイを担当していたラルフローレンが、ワシントンスクエア近くにお店を構えた。これがラルフローレンの始まりで、ファッションに1967とか67の文字が踊るのもそのせいなのだ。1992年、1993年のSnow Beachやスタジアムの復刻盤が、2018年の2月にラルフローレン キャットストリートで抽選で発売され、長蛇の列となった。

2112184こっちは東京が嫌いだし、はなっから出かける意志も無いし、なんだか別世界の出来事に見えていた。それが御殿場のラルフローレンs氏のlo-lifeの薦めで、すっかり嵌ってしまった。更に1992スタジアムシリーズでなくて、Snow Beachシリーズなのだ。その理由にハタッ!と気付いた。そうか油絵を描く時好んで多用している色なんだ。ライフワークは「愚行の輪」でその1作「再生のアイロニー 1972」が研究室に飾ってある。黄色に赤に黒にアメリカの国旗、我ながら納得でした。

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2021年11月29日 (月)

ダ・ヴィンチの最後の晩餐模写

21112912度目のイタリア紀行で遂にダ・ヴィンチに会った。正面に見える赤レンガ作りの建物がサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院で、ここの食堂に最後の晩餐がある。何が凄いかって?1495年当時パトロンの教会の指示を無視して次々革新を成し遂げたことで、本人の天才もあったが原動力は人と同じコトをしない反骨からくる創造力なのだ。あんぷおやじ流儀もダ・ヴィンチ流儀を参考にしているから苦労は絶えない。

2111293画像出展:wikipedia
勉強をしない、他人の意見を参考にしないは長年やってきたことで、最後の晩餐の模写があるなど知らなかった。wikiより「サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会にあるレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』を、ジャンピエトリーノ(イタリア語版)として知られる、ジョヴァンニ・ピエトロ・リッツォーリ (Giovanni Pietro Rizzoli) が模写した作品について...」何と最後の晩餐の模写が存在しており、現在の32bit,192kサンプリングに出会ったようで、情報量の多さにたまげ解釈まで違ってしまう。本物は真綿で首を絞められたような金縛りがあり、更に欠如した情報の補間による創造活動も組み込まれた、あのボロボロの本物のダ・ヴィンチは凄い。だから言わんこっちゃあない、模写など知らなくても良かったのだ。

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2021年11月 5日 (金)

絵ヂカラ力学 ゲルニカ

2111042キュビスムは嫌いでシュールレアリズムが好きとは、古典に回帰した今考えれば似たり寄ったりで滑稽な感じがする。1996年の2月、20年の満期を持ってiaiを辞して、予てからの計画だったスペイン旅行を家族全員(7人)で敢行した。今なればイタリアなのだが、当時はダリに傾倒していたからスペインだった。バルセロナのピカソ美術館 (Museu Picasso) は、ピカソの幼少期から「青の時代」の作品群があり、キュビスム前の天才画家を観ることができた。見ても見えないし、聴いても聴こえない。本当に見えたならば描けるし、本当に聴こえたならばアンプは作れる。だから写真はその時「何を見ようとしていたか!」の証拠になり、大事なのだ。

2111041マドリッドでオプションがあり、「ソフィア王女美術館へゲルニカを観に行こう」を選んだ。ピカソならばゲルニカで小学校の頃から知っている、知っているが好きな絵ではない。軽い気持ちで大きな空間に展示してあるゲルニカの前に立つ、途端に金縛り状態に遭い、涙が止まらなかった。某国営放送でゲルニカの番組が放映されて初めて苦難のゲルニカを知り、なぜ金縛りになったのか、一端が国営放送から理解できた。好きでないから予備知識も無いし勉強もしていない、それで感動するのだから凄い絵ヂカラなのだ。まあ、ここで終わらないのがあんぷおやじ流儀で、ラグビーをやっていた末っ子は当時小学1年、ゲルニカの前で歯が1本抜けた。そこでその歯を持って近くにある火災報知器の隙間に入れた。国営放送からもその火災報知器が映り、ゲルニカは完結した。

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