2021年11月29日 (月)

ダ・ヴィンチの最後の晩餐模写

21112912度目のイタリア紀行で遂にダ・ヴィンチに会った。正面に見える赤レンガ作りの建物がサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院で、ここの食堂に最後の晩餐がある。何が凄いかって?1495年当時パトロンの教会の指示を無視して次々革新を成し遂げたことで、本人の天才もあったが原動力は人と同じコトをしない反骨からくる創造力なのだ。あんぷおやじ流儀もダ・ヴィンチ流儀を参考にしているから苦労は絶えない。

2111293画像出展:wikipedia
勉強をしない、他人の意見を参考にしないは長年やってきたことで、最後の晩餐の模写があるなど知らなかった。wikiより「サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会にあるレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』を、ジャンピエトリーノ(イタリア語版)として知られる、ジョヴァンニ・ピエトロ・リッツォーリ (Giovanni Pietro Rizzoli) が模写した作品について...」何と最後の晩餐の模写が存在しており、現在の32bit,192kサンプリングに出会ったようで、情報量の多さにたまげ解釈まで違ってしまう。本物は真綿で首を絞められたような金縛りがあり、更に欠如した情報の補間による創造活動も組み込まれた、あのボロボロの本物のダ・ヴィンチは凄い。だから言わんこっちゃあない、模写など知らなくても良かったのだ。

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2021年11月11日 (木)

音楽力 San Francisco Bay Blues

2111104フィービ・スノウの新譜、いや最近何とかカリから手に入れたのだから自分流の新譜です。多分ブルースシンガーではno1ではないかと思う。jazzで言うならばエラフィッツ・ジェラルドのレベル、オクターブは広いし、千変万化の音色を出すし、アドリブも抜群だし、フィービ・スノウはもうjazzシンガーだ!別版のサンフランシスコ・ベイ・ブルース(San Francisco Bay Blues)を聴いていると音楽力はタイムマシンとなって、あの時代へ向かった。

2111105希望と絶望が織り成すロボットベンチャー時代、サンフランシスコのベイエリアを駆けずり回った。ゴールデンゲート・ブリッジを渡り、暫く走り、サンフランシスコ湾へ向かって√101を下りる。このルート101は良く走った幹線道路で、ロサンゼルスまで繋がっている。サンノゼ空港からロサンゼルスまでの飛行機が大幅な遅延、太っちょのクレイグがヒッヒと笑いながら「車を借りてロスへ戻りましょうかね?」と言う。

2111101この辺りは洒落たお店も多く上品で居心地の良い場所、ここはサウサリート(Sausalito)地区でサンフランシスコの騒然さは無く落ち着いている。jazzのライブをやっているレストランに陣取り、サンフランシスコの街が夜に向かう時間帯、ボ~っとサンフランシスコ湾を眺めている...そこには確かに自分が居た。

2111102音楽力でSan Francisco Bay Bluesをタイムマシン化してしまったのは、ローサーpm6の威力による所が大きい。細かい毛羽立ち音は独壇場で、フィービ・スノウの声になっていない声まで再現するから成せる技なのだ。気になりサンフランシスコ・ベイ・ブルースの歌詞と訳詩を調べた、最後の2行。
Walkin' with my baby 彼女と一緒に歩くのさ
Down by the San Francisco Bay サンフランシスコ湾に沿って
サンフランススコベイに沿って歩くなど無謀、車で何時間も掛かった。

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2021年11月 5日 (金)

絵ヂカラ力学 ゲルニカ

2111042キュビスムは嫌いでシュールレアリズムが好きとは、古典に回帰した今考えれば似たり寄ったりで滑稽な感じがする。1996年の2月、20年の満期を持ってiaiを辞して、予てからの計画だったスペイン旅行を家族全員(7人)で敢行した。今なればイタリアなのだが、当時はダリに傾倒していたからスペインだった。バルセロナのピカソ美術館 (Museu Picasso) は、ピカソの幼少期から「青の時代」の作品群があり、キュビスム前の天才画家を観ることができた。見ても見えないし、聴いても聴こえない。本当に見えたならば描けるし、本当に聴こえたならばアンプは作れる。だから写真はその時「何を見ようとしていたか!」の証拠になり、大事なのだ。

2111041マドリッドでオプションがあり、「ソフィア王女美術館へゲルニカを観に行こう」を選んだ。ピカソならばゲルニカで小学校の頃から知っている、知っているが好きな絵ではない。軽い気持ちで大きな空間に展示してあるゲルニカの前に立つ、途端に金縛り状態に遭い、涙が止まらなかった。某国営放送でゲルニカの番組が放映されて初めて苦難のゲルニカを知り、なぜ金縛りになったのか、一端が国営放送から理解できた。好きでないから予備知識も無いし勉強もしていない、それで感動するのだから凄い絵ヂカラなのだ。まあ、ここで終わらないのがあんぷおやじ流儀で、ラグビーをやっていた末っ子は当時小学1年、ゲルニカの前で歯が1本抜けた。そこでその歯を持って近くにある火災報知器の隙間に入れた。国営放送からもその火災報知器が映り、ゲルニカは完結した。

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2019年8月28日 (水)

ハンガン(漢江)ブルースⅡ

08261 ハンガン(漢江)はソウル市を南北に分断して流れる大河で、大陸にありがちな土色をした水を湛えている。信州の清流で育った自分にはお世辞にも綺麗な川とは言えない。その落陽ハンガン(漢江)ブルースもやがて現実に陽は沈んでしまう。これだけ全力を尽くして営業と啓蒙活動するもmr.an社は消滅してしまい、あんぷおやじの韓国技術営業は突然終了した。内心は今でも「どうしてくれるんだい!」とな。常々思うが、あの国はこうだとか、この国はああだとかは関係なく、人間皆同じで親切な人間も居れば陥れようとする人間も居る。違いは表皮と教育であって、案外そこを勘違いしたがる。韓国の表皮はとにかく声がデカい。従って、もそもそしていたんではロボットの啓蒙などできない。京畿道(キョンギド)の自動車関連企業には初期の4軸ロボットが納入されており、当時部下が試運転調整で相当いじめられた経緯があった。地方巡業で偶然この企業に出向いたら20人位が集まって、ワイワイガヤガヤこの4軸ロボットのクレームをつけてきた。これは仕様の問題で我が方に責任は無いと認識しており、更に部下がいじめられた経緯を思い出して熱くなり、日本語の大声で「うるさい!あんたらの仕様に問題があるのではないか!」と一喝したら全員が静かになり、セミナーは滞りなく終了して一つ学んだ。

08259x韓国にも梅雨があることを知った。雨が降り続く中クルマを置いた場所からセミナー会場まで、重たいロボットを手で持っていかなくてはならない。客人の自分は持たなくても良いのだが、つい見兼ねて重たいロボットを担いでしまう。パソコン工場のヒュンダイ電子は巨大なコンクリートジャングルで、真夏にこの重たいロボットを運ぶのは真にキツかった。地方巡業のmr.anチームは3人の若者で、このロボットセミナーに懸ける熱意を感じ、こっちも講演に格別リキが入った。今考えても良くあれだけのことが出来たな~と、自信を持って回顧できる。余談だが、講演に持参した4軸ロボット制御装置は画期的で、相棒の天才ソフトマンが作った最強のロボット言語を持ち、これならば自信を持って営業できると思わせた自信作だった。いまだに世界中も見渡してもこれを超えるロボット制御装置の登場は無い。左右の放熱器にデジタルサーボアンプを2chずつ搭載で4軸構造。今だから言うが、やりたかったハイエンドオーディオアンプそのものの構造をロボット制御装置へ密かに応用した。この真実は誰も知らない。

08266x地方巡業はヒュンダイの中型車に乗り、前席にyanさんとアナザーkimさん、後席に通訳のkimさんにあんぷおやじの4人と1台で効率良く移動した。疲労困憊で沈黙の中ラジオ放送が流れ、聞くとはなしに聞いていると日本の演歌みたいなハングル歌が聞こえて、ここにも日本文化が浸透している。kimさんに「これ日本の演歌みたいですが?」と聞くと「いや我が国の伝統的音楽です!」と言う。何れも「我が国とか伝統的とか」と国粋的表現が付きまとい、この国の教育の原点が垣間見えた。他にも明らかに日本文化と思えるモノも多かったが、いちいち問いかけも面倒で放っておくことにした。苦楽を共にしていると、この3人の若者とは同士の感覚になってくるが、根底は教育と文化のギャップで分断されている。そのギャップをオブラートで包んだ上でのお付き合いと、直感的に感覚した。

08267意外や意外で、仕事ではタフな割りに辛いモノや珍味に弱く、食事では随分困った。客人が来れば接待で贅沢な食事を共にする、これはどう見ても日本式の接待文化としか言いようがない。この悪しき?慣習の日本文化は東南アジア圏に広がったようだ。mr.anチームは食事にも随分気を使ってくれたから、食事が合わなくても「マッシソヨ」を連発して、やせ我慢をする。画像は中華料理だが、焼肉に日式(和食のコト)に宮廷料理など数々。一番のお気に入りは焼肉で毎度のリクエストとなるが、焼肉は持論で料理と見なさないから、韓国料理の真髄はやはり宮廷料理だろうか。当時の日式にいたっては和食もどきで殆ど怪しかった。昼食で食べたチゲ鍋に胃がやられて午後のセミナーでは声が出ないトラブルも起き、昼食の辛いものは厳禁とした。その他さまざま食したが、和食とは稀有なる「料理」であることを再認識した。

082621989年当時、米軍基地近くの梨泰院(イテウォン)はニセモノ街として賑わっていた。コルムやグッチの腕時計を両手に付けて成田に入国しても、税関で何も言われない時代だった。コルムのなんとかフラッグのガンメタなど本物は200万円する時計が数千円で買えた。日本人の観光客も多く、たいていは画像の表通りに並ぶ皮製品やニセモノグッズを入手していた。その後ニセモノ街は一掃されてアンダーグラウンド化した。時を同じくして成田ではニセモノの持込禁止となり、摘発までされるようになった。

08263ここで登場が見かけだけダンディなlee専務で、このニセモノ街に大いに顔が利いて、もしかしたらこちらのボス?ではないかと疑問するくらい。lee専務がヒッヒッと笑いながら「あんぷおやじさ~ん、ニセモノにも良品(正義)と不良品(悪)があるのね、表通りで売っているものは不良品(悪)ばかりやねん」勿論通訳のkimさんの言葉。なんだい、ニセモノに正義も悪もあるものか!と思わず吹いた。突然あんぷおやじの腕をグイと掴みlee専務は地下へどんどん降りて行き、段々不安になる。流石にこんな怪しい場所には日本人は誰も来ないし入れない。バックからサイフから勿論時計まで世界のブランド品が目白押しのお宝の山、そのお宝に目が眩み土産にと時計やサイフや名刺入れなど多くを買った。そこでハッと気が付き、見かけだけダンディlee専務の持っているヴィトンのバックも、これじゃあ...
人柄はすこぶる良くダンディなlee専務は最初にmr.an社を去った。
更に時計話しには落ちがある。コルムの腕時計は3ヶ月でメッキが剥がれ、ばれることをメッキが剥がれると言うが正にそれ、且つ良品のニセモノも(最悪)でありました。

08264定宿インターコンチネンタル・ソウルの朝食は豪勢なビュッフェスタイルでお気に入り、泊り客ではない日本人の観光客が朝食だけ(2,000円)に来たりする。食後はクラシックが静に流れる広大な吹きぬけラウンジへ移動して、「アガシー、コピーチョセヨ」とコーヒーを依頼する。ハングルは日本語と同じ文法だから、定型文さえ覚えてしまえば簡単なのだ。ただ発音は難しく諦めた。彼らの発音でコーヒーのヒーはピーとしか発音できないからコピーとなり、デファレントはデプロントとなる。そのインターコンチネンタル・ソウルから歩いて行ける場所に、洒落たロック・カフェを見つけて常連客となった。オーナーはソウル大芸術学部出身の才人で芸術家、画像のお店ロゴは本人のデザイン。英語を話すから我が方のカタコト英語でもなんとかコミュニュケーションは取れた。この時代日本は既にcdの時代になっていたが韓国は未だレコードの時代で、地方巡業の合間を縫ってmr.anにレコード屋へ案内してもらう。レコードを見てダメだと思った。日本の末期に等しくペラペラのソノシートみたいなlpでは良い音が出るわけも無い。そこで何枚も持っているオリジナル盤ガボール・ザボの「ドリーム」をロック・カフェへお土産としたら、音の良いレコードにエラく感動していた。

08265ロック・カフェのオーナーはヒュンダイのクルマ(ソナタ?)を持っている。当時個人でクルマを持っている人は殆ど居なくて珍しく、きっとお金持ちなんだろう。これから韓国のモータリゼーションが始まる丁度その時代だった。そこで韓国車に興味があったから運転させてもらった。国際免許を持ってアメリカで度々運転しているから、ヒュンダイの左ハンドル車も問題なく運転できる。アンダーパワーでシェラトン・ウォーカー・ヒルの坂道ではゼイゼイし、サスはよれよれでコーナリングの挙動はすこぶる妖しいし、全体的にガタだらけで精度感はまるで無い。この時代クルマはまだまだの時代だった。それと日本車は全く見ることは無く、ホンダのアコードで1千万円級と関税はとんでもなく高くなっていたようだ。全力を尽くしたお陰で韓国文化と真面目に面白く向き合うことが出来た。これは通常の観光客とは違う稀有なる体験と決めて、回収不足のこの件に落とし前を付けた。mr.an社はmr.kimが引き継いで現在も存続している。
...近頃の騒々しい日韓関係に、つい昔を思い出してしまった。

 

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2019年8月24日 (土)

ハンガン(漢江)ブルース

08241ボスの要請で初めてキンポ空港へ降り立ったのは、オリンピックで沸いた翌年の1989年の冬だった。噂どおりニンニクの香り漂う空港ロビーへ手看板を持って出迎えてくれたのは、仕立ての良いスーツをスマートに着こなした体格の良いlee専務だった。挨拶を流暢な日本語でしたものだからてっきり日本語ができると安堵したがそれまでで、仕方ないから英語にするがそれも分からずで、格好良く見えたのはそこまで。到着したのは何と韓国ビジネスの中心街にある世界貿易センタービルの27階、ロス帰りの社長のmr.anがにこやかに出迎えてくれる。眼下に極寒のソウルの町が広がり、まだ所々バラックが残っていたり、暖房の蒸気がもうもうと立ち込めたり、漢南(カンナム)の動き始めた新都心だった。日本語のできる美人秘書のkimさんの登場で、やっと緊張の糸がほぐれる。翌日からのとんでもない厳しいスケジュールなど分からないし詮索もしない、その日は国際級ホテルのインターコンチネンタルソウルへ落ちついた。やがてこの国際級ホテルが定宿になるなど、その時は思いもしなかった。さて翌朝、昨日までのハインセンスな国際級からインディジョーンズ丸出しの冒険旅行となり、砂塵を巻き上げて疾走する昌原(チャンヲン)行きのバスへ飛び乗る。要所々に居るm16を構えた軍兵に戦時下を思わせる。初日はいきなり三方を山に囲まれた(爆撃されないため)軍需産業の三星エアロスペースで、入り口ではパスポートを取られてがんじがらめの状況の中、ロボットセミナーは始まる。かくして韓国全土を営業&技術で講演して回った。

08242総仕上げが南山(ナムサン)タワーホテルの会議場で、三星、ゴールドスター、ヒュンダイなど名だたる企業の選抜メンバーを集めてのロボットセミナーとなった。元々専門用語の塊のロボット及び制御装置のセミナーは通訳のkimさんには荷が重く、上手く通訳できない苛立ちできつく当り、うっすらと涙を浮かべていたさまには気の毒をした。三星のドクターにはエラく気に入られて度々の訪問を要請されたり、ヒュンダイでは先生と呼ばれて大歓迎された。韓国科学技術員の研究者は今思えば冬のソナタの俳優にも似た色白の上品な青年で、随分と熱心にロボットについて議論し親しくなった。

08243x地方巡業は、朝8時に工業団地の各企業へ出向きセミナーを開始し、夕方7時に終了で1日5企業も回る日もザラであった。こんな時は流石に疲労困憊で車中涙が滲み「なんでこんなに一生懸命なんだろうか?」と自問自答したが、その答えは未だに見つかっていない。また地方の小さな食堂では現地の人々と同じものを食し(合わないものも多い)「イルボン...」と聞こえたら気を使い、複雑な国情を意識して細心の注意を払った。何日間かの地方巡業を終えてソウルへ戻るとなぜかホッとし、これの繰り返しだった。ハンガン(漢江)の奇跡と韓国経済の急激な発展を形容したそのハンガン(漢江)にたたずむと、夕日が沈みファイブ・スポット・アフター・ダーク(Five Spot After Dark)が頭を渦巻き、落陽のハンガンブルースと相成った。

08244未だ戒厳令もあったこの時代、mr.anのお疲れさま接待は決って高級クラブにディスコティック、どうゆう訳だかディスコティックと言う。この時代は既に整形ばやりで、高級クラブの女性は小顔の美人ばかり。おまけにカラオケではない生オケ、これには流石に閉口してmr.anに「自分にはこうゆう場所よりjazzクラブが似合いますから是非お願いしたい」「ようがす、ハイヤット・リージェンシーのjazzクラブへ行きましょう」。画像はハイヤット・リージェンシーから眺めたソウルの夜景で実に美しい。勇んでのり込むとステージで演奏していたのはフィリピンのロックバンドで「あの~、これjazzではないのですが...」「い~や、jazzです」なんだい、この国にはjazzが無いのか!jazzと称してロックバンドではお話にならない。それから何年も掛けて米軍基地近くの梨泰院(イテウォン)に「オール・ザット・ジャズ」とゆう名称のjazzクラブを見つけたが、jazzの認知度、浸透度は低くかった。友人のjazzピアニスト青木弘武さんの言葉「日本人は我慢の国民で黒人の我慢に似た所があり、アメリカ以外で珍しくjazzが根付いた国」に全てがある。数年間韓国営業をしたが、隣国でアジア圏でしかしjazzもロックも区別が妖しい(最近の東京jazzも妖しい)文化の国へ、訪問するチャンスはない。

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2018年10月 2日 (火)

木曽路温泉紀行「ホテル富貴の森」

1清内路峠がまだ砂利道の45年前、LB2000gtでドリフトしながら何度も駆け抜けた。その若気もはや古希、ドリフトどころか如何に自動運転してくれんか!の齢になった。伊豆の定宿は都合で行けなくなり、駒ヶ根の定宿は友人の支配人の退社で行けなくなり、温泉の定宿を探し求めていた。ホテル富貴の森 は√256から山中へ入るため、全く気付くことも無かった。ネットの評判に後押しされ、台風一過の惨状を目の当たりにしながらamgを駆って出かけた。

2湯がいい、なんともいい、鼻先まで沈み込み温泉の神様をス~ッと吸い込むと無味無臭にヒノキの香りが淡く漂い何とも心地よい。露天の湯は若干ワイルド、室内の湯はマイルドで同じ湯ながらこの変化は絶妙でたまげる。食事もまたいい、信州牛のステーキコースならば10,000円もとられそうな上質と量、素朴なお姉さんの説明もまたいい。木曽路の山中に本普請の温泉宿を見つけた。

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2017年9月11日 (月)

レクイエム 9.11

Twin2x_21996年11月、
ニューヨークは既に初冬、ハドソン川のナイトクルーズはフォーマルファッションの必要があり、入り口でエンジ色のジャケットを借りる。船上のディナーショーは滅法洒落ていて生バンドに無名?のボーカリスト、そんじょそこらのjazzボーカリストが太刀打ちできないくらい上手く、アメリカのエンターティナー世界の奥深さを知る。船上から眺めるツインタワーは圧巻で、視界からはみ出すほど大きく美しい。

Riverxマンハッタン対岸ブルックリン橋袂のリバカフェからツインタワーを最後に確認したのは1999年夏のこと、2年後にツインタワーは消滅して、ニューヨークを訪れる理由のひとつを見失った。

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