2022年9月25日 (日)

山田猛夫さん水彩画展了

2209171生憎の雨天だが静岡市へ向かうならば電車に限る。何年振りかの静岡の街は更に洗練されて、何だかよそよそしい。大体が新静岡で降りて最短でアゴラビルへ向かうはずが、エラく遠回りになってしまった。ニコニコしながら山田画伯が出迎えてくれる。少し前になるが、常連の鈴木さんが「清水南高時代の先生です!」とわざわざ教えに来てくれた。なるほど最大レベルで合点がいった。上手いではなくて巧いが的確な表現だし、趣味の極道の中で絵描きが一番長く、60年を越えているから見る目だけはある。

22091721976年にiaiの前身である清水機電を創業し、1、2年後清水商工会議所から会社の調査に見えられたのが鈴木さんで、何十年が過ぎてjazz喫茶amp工房の常連客となった。そして隣組で何時もエ-ル交換していた山田さんが、鈴木さんの先生で画家だったとは?実に人生は不思議と奇想天外に満ちている。上手い絵はいくらでも観てきたが、上手いだけでは人の心は動かない。

2209173丁度色々あって、そう長い期間では無い仮住まいの時期が23組で、山田さんに親切にして頂いた。校長まで歴任されたと分かり更に納得した。一番上の絵にあるように水面下の見え難い所にその方の人生や生き方が現れ、その表現が美しく感動した。こちらの絵の清流文様の表現はとんでもなく大変だが、サラっとこなしている非凡。なんと言っても真ん中の絵で、その真ん中の木の枝に注目、枝葉末節を主役にしてしまうのだから、これはもう凄過ぎ。この多彩な表現は、今まで出会ったことが無い唯一無二。

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2022年9月 9日 (金)

pwmアンプハードウエア3

2209051リバカフェから眺めるマンハッタン島がベストビューで、そのシンボルとなればワールドトレードセンタービルとなる。破壊されて20年以上が過ぎて新しいビルが建ち、超近代的な新しいビルはどうにも馴染まないが、それは個人の好みだから仕方がない。仕方がないが、ニューヨークへ行くべき理由の1つが減った。写真はその風景の思い出と併せて、当時の自分の置かれた立ち位置を思い出す。当時もサーボアンプの開発を手がけており結構苦労していた。

2209052これで何とか組みあがったのだが...

2209053モータの関係で駆動コイルは2コイルとなっており、全面的に作り直さねばならないことは分かっていたが先ず1コイル分をまとめた。配線インダクタンスの低減で8スクエアのivを限界まで短くしたので配線のやり難さは、おびただしい。ですからipmのメーカは電解コンデンサとipmを一体化で作るべきで...そりゃあ無理な相談となるでしょうが、そこに発明のヒントがあると思いますがね。

2209054重い腰を上げて2コイル対応のハードウエアを完成させた。1人プロジェクトxのしんどいのは面倒な作業も自分でやらねばならなく、iai時代のように指示だけ(口だけ)なら随分楽なのだが、しかし微に入り細に入りの納得は一人プロジェクトxでなければ出来ない。どっちが良いか?テクノストレスゼロの1人プロジェクトxが俄然良い。150aと75aのipmが2個、lemの貫通型電流センサが2個何とかバランス良く付いた。

2209055ラインフィルターとはこうなる。配線をインダクタンスとすればipmの端子直近へ高周波特製の良いフィルムコン(緑色)を付ける。理屈ではそうだが電流源は18000μfの電解コンデンサが現在の2本+あと2本、これの内部インピーダンスの低い供給源からの短絡電流ノイズは輻射ノイズともなって消しようがない。ともかく電解コンデンサからipmの±端子までがpwmアンプの肝となる。更に言わしてもらえば、この間の着磁電流にも似た短絡電流はプロテクトのしようが無いから、ここはipmの保護機能を充実させて欲しい。

2209056冒頭に戻り、9月11日が近づくと当時を思い出す。その頃のamp工房は駒ヶ根事務所時代で、仕事を終えて深夜に清水へ戻るとニュースが流れていた。放映をリアルタイムで見てしまったから、殊更強烈に印象が残っている。こちらの画像はリバティ島(自由の女神)からの撮影で、眼前にワールドトレードセンタービルがド迫力で迫る。右上にヘリが見えるが、小型航空機もビル近くを飛んでいるのだから、事件の状況も分かる。ワールドトレードセンタービルは通称ツインタワーと呼ばれ、我々にはこっちの方が馴染みだ。四角い塔が2本、このシンプルで意味深いデザインは不滅と思っていたが...

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2022年8月30日 (火)

ゲルニカ

2208141マドリッドのソフィア王妃芸術センターの土産物売り場で買った陶板製のゲルニカで、重くて後悔しながら持ち帰ったが今やお宝になっている。キュビスムは嫌いだ!シュールレアリズムだ!とダリに傾倒していたが、巨大なゲルニカの前に立った途端金縛りに会い、涙が滲んだ。批判を浴びたこの絵の発表に際しピカソは黙して語らなかったが、前衛絵画に作者本人の雄弁は要らない。また「全ての芸術は音楽の状態に憧れる」との名言もあるが、それは違う。コルトレーンはライブで聴けないし、会うことも出来ない。絵画は今でもライブだ!ですからゲルニカを見るならばマドリッドへ行くべし、フェルメールを見るならばアムステルダムへ行くべし、天地創造を見るならばバチカンへ行くべし、500年でも1000年でも絵画はライブを待っている。誰だい現代のフランコは?今こそ再びゲルニカに登場して頂きたい。

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2022年7月21日 (木)

ステノプテラス交配種開花か?了

2207081残念ながらステノプテラス交配種ではありません。花は白ですから接木の台木に良く使われる3角柱です。途中から蕾の白が明らかになり、ステノプテラスに非ずと落ち込んでいた。何で間違えたのだろうか?ところで3角柱の近隣種にドラゴンフルーツがあり、台北のタートン(大同)へ技術指導に出かけていた時、仏教徒で菜食主義者のチンさんが「これ食べて~」と何度も持ってきてくれた。ドラゴンフルーツはサボテンの実が食べられる典型的な例です。台北ではベランダからドラゴンフルーツが群生して垂れ下がっており、たまげた思い出もある。

22070821人夜勤に出かける前12時頃にスマホ撮影したが、この時間帯が完全開花になる。スマホの使い方がよく分からずボケた画像になった。花径はガクの部分が最大20cmを超えているが、フルパワーでは25cm~30cm位になる。

2207083「朝日のようにさわやかに」の時間帯に撮影した。夜8時くらいから開花して丑三つ時に完全開花、明け方にはしぼみ始めて日が当たる頃には萎んでしまう。清楚で良い花ですが全長で6~7m位にならないと咲かないから、良くぞ咲いたとも言える。夜咲きの殆どが白色大輪になる理由は、夜間の僅かな光の中で目立たせて蛾などを呼び寄せる為です。よくあの手のレディを「夜の蝶」と申しますが当たらずで、蝶は夜寝ている。夜動き回るのは蛾で、しかし夜の蛾では余りにも美しくない。更に呼び寄せ戦術で芳香も出しているが、芳香にも色々あり人間様には嫌な香りもある。また本体は硬くてグルグル巻きにしようものなら直径は2m位も必要になり、栽培に難儀する。我が家では身分急降下で、隅の日当たり悪~い場所に移動でした。一体ステノプテラスの開花にあと何年掛かるのだろうか?

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2022年7月 8日 (金)

アントニ・ガウディの名言とファッション考

2206231x1996年2月、iaiを辞して家族7人を引き連れてスペイン紀行を敢行した。今でこそイタリアだが、当時はダリ、ガウディ、ピカソ、ベラスケス、ゴヤ、ファリャ、カザルス...キリがないほどスペインの巨匠達にシビレまくっており、即決だった。当時、観光ガイドさんは「サグラダ・ファミリア(聖家族教会)の完成にはあと100年掛かります!」と申しておりました。その後観光客の増加で浄財が増えて、2026年(ガウディ没後100年を目指した)の完成と予定が早まった。昨年12月にマリアの塔が完成して頂上の星型に光が灯り、コロナ禍の世界へガウディのメッセージが強力に放射された。画像は何枚もある完成予想図を写真に撮ったもので、左の塔が計画時のマリアの塔でしょう。

2206232建築家ガウディの名言に「神は完成を急がない。諸君、明日はもっといい仕事をしよう。」があり、ミケランジェロ(彫刻家であり画家であり建築家)の「出来た時が納期です!」に似て、芸術界の巨匠達は同じようなことを言う。当時はこの画像のように大きな塔の完成は4本だけだったから、現在全ての塔が林立した壮観さにはたまげる。あまりの多忙さと私財を投げうっての建築で浮浪者のような格好をしていたガウディは、教会のミサに出かけた際に路面電車にはねられたが、身なりから巨匠ガウディであることが分からず手当てが遅れて死亡したとなっている。

2206283xですから高齢になると身なりがことさら重要になるのだ。この猛暑で行き倒れた場合、身なりによってはガウディと同じことになりかねない。とゆうことで団塊は身なりも大事との結論に達し、ラルフローレンの優秀なスタッフの皆さんにご指導頂いている。

22062831スタッフの元ラガーマンのo田さんはいつも衣服をきちんと手入れされてコーデに気を配り格好が良い上に清潔感が漂い(お洒落はお代をかけることではない!)、ニューヨークへ出かけても堂々と5番街を闊歩できる。弁護士を目指す「あの方」もラルフローレン発祥のニューヨークだから、ラルフの紺ジャケットとオックスフォードにレジメタルネクタイに白パンツにすれば、汚いどころか格好良いと評価は逆転する。アメリカで仕事をしてきた経験上、ビジネスマンの身なりの汚いは論外です。

2206283ラルフローレンのスタッフの皆さんはボスを「ミスター」と呼んで尊敬している。創業者ラルフ・ローレンさんはブルックス・ブラザースでネクタイを担当し、1967年にラルフローレンブランドを立ち上げた、カリスマ創業者です。ですから1967年の67の文字が衣服デザインに多く登場し、創業の地がワシントンスクエア近くのブレーカー通り(ここには公園もありjazzの映画も撮影された閑静な通り)381番地で、381の文字も登場する。この1967年はあんぷおやじが日立へ入社した年、また尊敬するジョン・コルトレーンが亡くなった年でもあり、ポロシャツの67の文字に特別な重みを感ずる。ですから、終のファッションに決めた理由が「ミスター」の67文字にあります。55年前の日立の自分のコードは317670052で今だにスラスラ言えて、忘れないもんだねえ~。

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2022年4月23日 (土)

訃報 柳生博さん

22042211989年の開店当初から通っているから、かれこれ30年になる。清里がケバくなり行き先を探していたら、偶然洒落たカフェ「八ヶ岳倶楽部」を見つけて常連となった。ここで木や鉄や土やガラスなどの芸術家、ブルースシンガー、バリバリの役者さん、etc多くのクリエイター達と会うことができて、良い経験になった。八ヶ岳倶楽部はある種芸術家のサロンみたいになっており、それも柳生さんの期待していることだったのでしょう。

2204222何年か前この席で話し込んだことがある。「18歳~19歳まで清水の商船学校(現東海大海洋学部)に在学、三保折戸にはやたらと詳しい。カッター部のキャップテンをしていたから、部員を集めて三保から対岸の清水の街まで遊びにボートで渡ったそうな、等々」報道では老衰とされているが、まだ85歳で惜しい旅立ちです。

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2021年11月29日 (月)

ダ・ヴィンチの最後の晩餐模写

21112912度目のイタリア紀行で遂にダ・ヴィンチに会った。正面に見える赤レンガ作りの建物がサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院で、ここの食堂に最後の晩餐がある。何が凄いかって?1495年当時パトロンの教会の指示を無視して次々革新を成し遂げたことで、本人の天才もあったが原動力は人と同じコトをしない反骨からくる創造力なのだ。あんぷおやじ流儀もダ・ヴィンチ流儀を参考にしているから苦労は絶えない。

2111293画像出展:wikipedia
勉強をしない、他人の意見を参考にしないは長年やってきたことで、最後の晩餐の模写があるなど知らなかった。wikiより「サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会にあるレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』を、ジャンピエトリーノ(イタリア語版)として知られる、ジョヴァンニ・ピエトロ・リッツォーリ (Giovanni Pietro Rizzoli) が模写した作品について...」何と最後の晩餐の模写が存在しており、現在の32bit,192kサンプリングに出会ったようで、情報量の多さにたまげ解釈まで違ってしまう。本物は真綿で首を絞められたような金縛りがあり、更に欠如した情報の補間による創造活動も組み込まれた、あのボロボロの本物のダ・ヴィンチは凄い。だから言わんこっちゃあない、模写など知らなくても良かったのだ。

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2021年11月11日 (木)

音楽力 San Francisco Bay Blues

2111104フィービ・スノウの新譜、いや最近何とかカリから手に入れたのだから自分流の新譜です。多分ブルースシンガーではno1ではないかと思う。jazzで言うならばエラフィッツ・ジェラルドのレベル、オクターブは広いし、千変万化の音色を出すし、アドリブも抜群だし、フィービ・スノウはもうjazzシンガーだ!別版のサンフランシスコ・ベイ・ブルース(San Francisco Bay Blues)を聴いていると音楽力はタイムマシンとなって、あの時代へ向かった。

2111105希望と絶望が織り成すロボットベンチャー時代、サンフランシスコのベイエリアを駆けずり回った。ゴールデンゲート・ブリッジを渡り、暫く走り、サンフランシスコ湾へ向かって√101を下りる。このルート101は良く走った幹線道路で、ロサンゼルスまで繋がっている。サンノゼ空港からロサンゼルスまでの飛行機が大幅な遅延、太っちょのクレイグがヒッヒと笑いながら「車を借りてロスへ戻りましょうかね?」と言う。

2111101この辺りは洒落たお店も多く上品で居心地の良い場所、ここはサウサリート(Sausalito)地区でサンフランシスコの騒然さは無く落ち着いている。jazzのライブをやっているレストランに陣取り、サンフランシスコの街が夜に向かう時間帯、ボ~っとサンフランシスコ湾を眺めている...そこには確かに自分が居た。

2111102音楽力でSan Francisco Bay Bluesをタイムマシン化してしまったのは、ローサーpm6の威力による所が大きい。細かい毛羽立ち音は独壇場で、フィービ・スノウの声になっていない声まで再現するから成せる技なのだ。気になりサンフランシスコ・ベイ・ブルースの歌詞と訳詩を調べた、最後の2行。
Walkin' with my baby 彼女と一緒に歩くのさ
Down by the San Francisco Bay サンフランシスコ湾に沿って
サンフランススコベイに沿って歩くなど無謀、車で何時間も掛かった。

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2021年11月 5日 (金)

絵ヂカラ力学 ゲルニカ

2111042キュビスムは嫌いでシュールレアリズムが好きとは、古典に回帰した今考えれば似たり寄ったりで滑稽な感じがする。1996年の2月、20年の満期を持ってiaiを辞して、予てからの計画だったスペイン旅行を家族全員(7人)で敢行した。今なればイタリアなのだが、当時はダリに傾倒していたからスペインだった。バルセロナのピカソ美術館 (Museu Picasso) は、ピカソの幼少期から「青の時代」の作品群があり、キュビスム前の天才画家を観ることができた。見ても見えないし、聴いても聴こえない。本当に見えたならば描けるし、本当に聴こえたならばアンプは作れる。だから写真はその時「何を見ようとしていたか!」の証拠になり、大事なのだ。

2111041マドリッドでオプションがあり、「ソフィア王女美術館へゲルニカを観に行こう」を選んだ。ピカソならばゲルニカで小学校の頃から知っている、知っているが好きな絵ではない。軽い気持ちで大きな空間に展示してあるゲルニカの前に立つ、途端に金縛り状態に遭い、涙が止まらなかった。某国営放送でゲルニカの番組が放映されて初めて苦難のゲルニカを知り、なぜ金縛りになったのか、一端が国営放送から理解できた。好きでないから予備知識も無いし勉強もしていない、それで感動するのだから凄い絵ヂカラなのだ。まあ、ここで終わらないのがあんぷおやじ流儀で、ラグビーをやっていた末っ子は当時小学1年、ゲルニカの前で歯が1本抜けた。そこでその歯を持って近くにある火災報知器の隙間に入れた。国営放送からもその火災報知器が映り、ゲルニカは完結した。

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2019年8月28日 (水)

ハンガン(漢江)ブルースⅡ

08261 ハンガン(漢江)はソウル市を南北に分断して流れる大河で、大陸にありがちな土色をした水を湛えている。信州の清流で育った自分にはお世辞にも綺麗な川とは言えない。その落陽ハンガン(漢江)ブルースもやがて現実に陽は沈んでしまう。これだけ全力を尽くして営業と啓蒙活動するもmr.an社は消滅してしまい、あんぷおやじの韓国技術営業は突然終了した。内心は今でも「どうしてくれるんだい!」とな。常々思うが、あの国はこうだとか、この国はああだとかは関係なく、人間皆同じで親切な人間も居れば陥れようとする人間も居る。違いは表皮と教育であって、案外そこを勘違いしたがる。韓国の表皮はとにかく声がデカい。従って、もそもそしていたんではロボットの啓蒙などできない。京畿道(キョンギド)の自動車関連企業には初期の4軸ロボットが納入されており、当時部下が試運転調整で相当いじめられた経緯があった。地方巡業で偶然この企業に出向いたら20人位が集まって、ワイワイガヤガヤこの4軸ロボットのクレームをつけてきた。これは仕様の問題で我が方に責任は無いと認識しており、更に部下がいじめられた経緯を思い出して熱くなり、日本語の大声で「うるさい!あんたらの仕様に問題があるのではないか!」と一喝したら全員が静かになり、セミナーは滞りなく終了して一つ学んだ。

08259x韓国にも梅雨があることを知った。雨が降り続く中クルマを置いた場所からセミナー会場まで、重たいロボットを手で持っていかなくてはならない。客人の自分は持たなくても良いのだが、つい見兼ねて重たいロボットを担いでしまう。パソコン工場のヒュンダイ電子は巨大なコンクリートジャングルで、真夏にこの重たいロボットを運ぶのは真にキツかった。地方巡業のmr.anチームは3人の若者で、このロボットセミナーに懸ける熱意を感じ、こっちも講演に格別リキが入った。今考えても良くあれだけのことが出来たな~と、自信を持って回顧できる。余談だが、講演に持参した4軸ロボット制御装置は画期的で、相棒の天才ソフトマンが作った最強のロボット言語を持ち、これならば自信を持って営業できると思わせた自信作だった。いまだに世界中も見渡してもこれを超えるロボット制御装置の登場は無い。左右の放熱器にデジタルサーボアンプを2chずつ搭載で4軸構造。今だから言うが、やりたかったハイエンドオーディオアンプそのものの構造をロボット制御装置へ密かに応用した。この真実は誰も知らない。

08266x地方巡業はヒュンダイの中型車に乗り、前席にyanさんとアナザーkimさん、後席に通訳のkimさんにあんぷおやじの4人と1台で効率良く移動した。疲労困憊で沈黙の中ラジオ放送が流れ、聞くとはなしに聞いていると日本の演歌みたいなハングル歌が聞こえて、ここにも日本文化が浸透している。kimさんに「これ日本の演歌みたいですが?」と聞くと「いや我が国の伝統的音楽です!」と言う。何れも「我が国とか伝統的とか」と国粋的表現が付きまとい、この国の教育の原点が垣間見えた。他にも明らかに日本文化と思えるモノも多かったが、いちいち問いかけも面倒で放っておくことにした。苦楽を共にしていると、この3人の若者とは同士の感覚になってくるが、根底は教育と文化のギャップで分断されている。そのギャップをオブラートで包んだ上でのお付き合いと、直感的に感覚した。

08267意外や意外で、仕事ではタフな割りに辛いモノや珍味に弱く、食事では随分困った。客人が来れば接待で贅沢な食事を共にする、これはどう見ても日本式の接待文化としか言いようがない。この悪しき?慣習の日本文化は東南アジア圏に広がったようだ。mr.anチームは食事にも随分気を使ってくれたから、食事が合わなくても「マッシソヨ」を連発して、やせ我慢をする。画像は中華料理だが、焼肉に日式(和食のコト)に宮廷料理など数々。一番のお気に入りは焼肉で毎度のリクエストとなるが、焼肉は持論で料理と見なさないから、韓国料理の真髄はやはり宮廷料理だろうか。当時の日式にいたっては和食もどきで殆ど怪しかった。昼食で食べたチゲ鍋に胃がやられて午後のセミナーでは声が出ないトラブルも起き、昼食の辛いものは厳禁とした。その他さまざま食したが、和食とは稀有なる「料理」であることを再認識した。

082621989年当時、米軍基地近くの梨泰院(イテウォン)はニセモノ街として賑わっていた。コルムやグッチの腕時計を両手に付けて成田に入国しても、税関で何も言われない時代だった。コルムのなんとかフラッグのガンメタなど本物は200万円する時計が数千円で買えた。日本人の観光客も多く、たいていは画像の表通りに並ぶ皮製品やニセモノグッズを入手していた。その後ニセモノ街は一掃されてアンダーグラウンド化した。時を同じくして成田ではニセモノの持込禁止となり、摘発までされるようになった。

08263ここで登場が見かけだけダンディなlee専務で、このニセモノ街に大いに顔が利いて、もしかしたらこちらのボス?ではないかと疑問するくらい。lee専務がヒッヒッと笑いながら「あんぷおやじさ~ん、ニセモノにも良品(正義)と不良品(悪)があるのね、表通りで売っているものは不良品(悪)ばかりやねん」勿論通訳のkimさんの言葉。なんだい、ニセモノに正義も悪もあるものか!と思わず吹いた。突然あんぷおやじの腕をグイと掴みlee専務は地下へどんどん降りて行き、段々不安になる。流石にこんな怪しい場所には日本人は誰も来ないし入れない。バックからサイフから勿論時計まで世界のブランド品が目白押しのお宝の山、そのお宝に目が眩み土産にと時計やサイフや名刺入れなど多くを買った。そこでハッと気が付き、見かけだけダンディlee専務の持っているヴィトンのバックも、これじゃあ...
人柄はすこぶる良くダンディなlee専務は最初にmr.an社を去った。
更に時計話しには落ちがある。コルムの腕時計は3ヶ月でメッキが剥がれ、ばれることをメッキが剥がれると言うが正にそれ、且つ良品のニセモノも(最悪)でありました。

08264定宿インターコンチネンタル・ソウルの朝食は豪勢なビュッフェスタイルでお気に入り、泊り客ではない日本人の観光客が朝食だけ(2,000円)に来たりする。食後はクラシックが静に流れる広大な吹きぬけラウンジへ移動して、「アガシー、コピーチョセヨ」とコーヒーを依頼する。ハングルは日本語と同じ文法だから、定型文さえ覚えてしまえば簡単なのだ。ただ発音は難しく諦めた。彼らの発音でコーヒーのヒーはピーとしか発音できないからコピーとなり、デファレントはデプロントとなる。そのインターコンチネンタル・ソウルから歩いて行ける場所に、洒落たロック・カフェを見つけて常連客となった。オーナーはソウル大芸術学部出身の才人で芸術家、画像のお店ロゴは本人のデザイン。英語を話すから我が方のカタコト英語でもなんとかコミュニュケーションは取れた。この時代日本は既にcdの時代になっていたが韓国は未だレコードの時代で、地方巡業の合間を縫ってmr.anにレコード屋へ案内してもらう。レコードを見てダメだと思った。日本の末期に等しくペラペラのソノシートみたいなlpでは良い音が出るわけも無い。そこで何枚も持っているオリジナル盤ガボール・ザボの「ドリーム」をロック・カフェへお土産としたら、音の良いレコードにエラく感動していた。

08265ロック・カフェのオーナーはヒュンダイのクルマ(ソナタ?)を持っている。当時個人でクルマを持っている人は殆ど居なくて珍しく、きっとお金持ちなんだろう。これから韓国のモータリゼーションが始まる丁度その時代だった。そこで韓国車に興味があったから運転させてもらった。国際免許を持ってアメリカで度々運転しているから、ヒュンダイの左ハンドル車も問題なく運転できる。アンダーパワーでシェラトン・ウォーカー・ヒルの坂道ではゼイゼイし、サスはよれよれでコーナリングの挙動はすこぶる妖しいし、全体的にガタだらけで精度感はまるで無い。この時代クルマはまだまだの時代だった。それと日本車は全く見ることは無く、ホンダのアコードで1千万円級と関税はとんでもなく高くなっていたようだ。全力を尽くしたお陰で韓国文化と真面目に面白く向き合うことが出来た。これは通常の観光客とは違う稀有なる体験と決めて、回収不足のこの件に落とし前を付けた。mr.an社はmr.kimが引き継いで現在も存続している。
...近頃の騒々しい日韓関係に、つい昔を思い出してしまった。

 

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